初めての書籍(正確にはムック)制作では、「お笑い」がテーマだったこともあり、いろいろな芸人さんを取材したり、取材に立ち会ったりしました。
このブログの私担当分の初回で言及した東京03のお三方や佐久間宣行さんとお会いした(佐久間さんとは名刺交換しただけですが)のも、この本の制作をしているときでした。
当時、この本のためにサンドウィッチマンさんのインタビュー取材もしたのですが、失礼のないよう正座で話を聞いていたところ、取材後に足がしびれて数分間立てなくなってしまい、かえってご迷惑をおかけしたことも。
それから約15年が経って、このとき取材で一瞬すれ違った方々が、それぞれの分野で活躍され重鎮的な立場にまでなっているとは、当時は夢にも思っていませんでした。
やや気恥ずかしい表現ですが、このころまでが私の編集者としての青春時代だったような気がします。
当時は長らく彼女もおらず、仕事が生活の中心でした。その環境が良かったかというと決してそんなことはないのですが、その他のことをあまり考えずに仕事に打ち込めたことは、今思うと、やはり、恥ずかしながら「青春だったな」という気がします。
そして、この書籍制作を担当していた時期の終盤に、共通の友人を介して今の妻と出会ってつきあいはじめました。
しかし、その後の私の職業歴は、自分でも驚くほどめまぐるしく変わっていきます。
……
この「お笑いの本」が完成したのち、ほどなくして私はM社を辞めることになりました。
社長と口論をしてしまい、人生2度目の“クビ”となったのです。
結論としては、当時の私はまだまだ“ケツが青かった”のだと思います。
30代も半ばにさしかかったいい大人が、社長と口論するという社会人としての未熟さについては、今は反省しています。M社社長だったTさん、あのときは申し訳ありませんでした。
このとき以降、仕事で関わった人に、感情をむき出しにしてものを言ったことは“ほぼ”ない……はずです。
突然、解雇を言い渡された日の夜、私が帰宅しようとしたところ、M社の同僚数人が「このまま最後ではあまりにも……」と同情してくれたようで、四谷で飲み会をすることになりました(M社は当時、四谷三丁目にあった)。
前々回のブログで言及したKさん(版元のアダルト系の広告営業担当だった方)も、夜に突然退職の報告をしたにも関わらず(そして、Kさんは他の方々と別の店でお酒を飲んでいたにもかかわらず)、私の最終日のお酒の席に来てくださいました。
また、このときつくったお笑いムックの版元担当者で、書籍編集経験のなかった私に厳しく指導してくださったMさんも、急なご報告であったにもかかわらず同席してくださいました(Mさんは他人にも自分にも厳しい熱血タイプの女性で、書籍制作時に、私同様に何日も徹夜されていた)。
余談ですが、このMさんは過去にある“ヴィジュアリスト”の方のマネージャーをしており、私が前職のW社在籍時、その“ヴィジュアリスト”の方のDVD情報を掲載してほしいと来社し、私が対応したことがあった――ということが、このときの書籍制作の中盤、ランチの際の雑談でMさんの経歴をうかがっていた際にわかり、「あのときの…」という奇遇なご縁もありました。
この夜、お笑い本の版元担当者だったMさんは、私に1枚の名刺をくれました。
編集プロダクションA社のデザイナー、Dさんという方の名刺で、「編集の仕事を続けるつもりなら、ここに問い合わせてみたら」ということでした。
M社には、およそ3年半ほど在籍し、私は30代の半ばにさしかかっていました。
後日、名刺に書かれていたDさんに問い合わせたところ、「まずは履歴書を送ってほしい」との回答だったので、証明写真を撮って履歴書を送りました。
ほどなく「面接がしたい」との連絡があり、当時同社のNo.2だったWさんと面接し、驚くほど速やかにA社へ入社することが決まりました(後日、A社の事務を担当していた方が、私の履歴書の写真を見て「この人、仕事ができそう」と言って推してくださったことを知る[ただし、スーツも着ずに普段着のポロシャツのまま撮った、今思うと、履歴書に貼る写真としては30代半ばの社会人としてあり得ないものだった]。最近、こうした偶然やご縁はつくづくありがたいものだと思う)。