W社在籍時には、およそ15歳上の上司であるFさんに編集のイロハを指導していただきました。
Fさんは、エンタメ情報誌「シティロード」の副編集長を経て、大手出版社のK社が発行する女性情報誌で映画担当を務めていたこともあるベテラン編集者で、この経歴からわかるように、私が人生で初めて出会った正真正銘のシネフィル(映画狂)でした。
そして、私にとっては編集の「師」でもありました。
Fさんからは大小さまざまなことを学びましたが、そのうち私にとって大きかったのは「編集の仕事は自分の価値観を信じて進めてよい(この“解釈”は完全な正解ではないかもしれませんが、少なくとも私にはこの解釈が役立ってきました)ということと、多少の逡巡やハードルが高いと感じることがあったとしても「とりあえずやってみる」ことの大切さです。
この2つは、私が編集の仕事をするうえで今なお背骨のようなものになっています(ただし、Fさんは根っからの編集者[コンテンツ制作者、職人]で、ビジネス[つまりお金稼ぎ]があまりうまくなかった印象で[W社以前のことはわかりませんが]、その点はあまり学べなかった……)。
この2つを学んだこともあり、ほとんどの場合は数ページ分の原稿をご寄稿いただくだけの薄い縁ではあったものの、当時、私がその表現に引かれていた多くの方々に仕事を依頼する機会を得ました。
中でも、N社からリリースされたマーティン・スコセッシ制作総指揮の『THE BLUES Movie Project』について久住昌之さんにご寄稿いただいたり、P社からリリースされた故・高田渡氏のドキュメンタリー『タカダワタル的』について森達也さんにご寄稿いただいたりしたことは、当時の私にとっては「会心の仕事」でした。
余談ですが、私は20代前半のころ(多分、まだ学生だった)にフジテレビの「NONFIX」で複数の“超能力者”を追ったドキュメンタリーを偶然視聴し、そのエンディングにおける超能力者と番組ディレクターのやりとりが強烈に印象に残っていました(どういうエンディングかは、ネタバレと感じる人もいるかもしれないのでここでは伏せます)。
そして数年経ったのち、たまたまBOOKOFFで見つけた『職業欄はエスパー』という本を購入し、「あのドキュメンタリーを撮った人が書いた本だ」とわかった時から、その方(森達也さん)のファンになり、W社在籍時には映像・書籍を問わず森さんの作品を追いかけるようになっていました(当時、森さんのTVドキュメンタリー時代の作品はソフト化されておらず[のちにソフト化される]、早稲田大学で行われた森達也さんの作品上映会[ご本人も登壇]に行ったりもしていた)。
本筋に戻ります。
W社では、その他にもいろいろな方々にご寄稿いただいたり、取材させていただいたりしましたが、とりわけ思い出深いのは、10代のころの私にとって「3大スター」の一人であった森若香織さん(GO-BANG’Sのボーカル、と言えば、同世代であればわかる方も多いかと)に、洋楽DVDについての連載コラムをご担当いただいたことです(ちなみに、10代のころの私の3大スターは、島田雅彦さん、ピーター・バラカンさん、森若香織さんだった。外国人や故人も含めれば他にも数人いましたが)。
これにも余談があります。
連載を依頼し、当時、森若香織さんのマネジメントをされていた方に承諾の連絡をいただいた当初、その方から「森若さんを交えて一度、対面で打ち合わせをしましょう」というご提案をいただきました。
しかし私は、「多忙」を理由に辞退してしまいました。
このとき多忙だったのは事実なのですが、本音としては「実際にお会いして、あの森若さんに嫌われたら(変なヤツだと思われたら)どうしよう」という、我ながらなんともセンシティブな不安にとらわれ断ったというのが実情です。
森若香織さんは当時の私にとって、それくらいに強烈な憧れの対象でした。といっても、女性アイドルを応援するような気持ちではなく(そういう気持ちも幾分かはあったかもしれませんが)、どちらかというと「自分もこういう人になりたい(こういう表現者になりたい、こういう生き方をしたい)」といった感覚で憧れる対象でした。
同じ状況であれば、今の私なら喜び勇んで会いに行くと思いますが、当時の私には、まだ10代のころのような繊細さや自意識過剰さが残っていたようです(もちろん、今でもそうした感覚や感情がまったくないわけではありませんが)。
とはいえ、今となっては「それもよかったのかな」とも思います。
仕事をするうえでは、イケイケなポジティブさや積極性ももちろん大切だと思いますが、物づくりに関連した仕事に従事する人間としては、そうした繊細さがあってもいいのでは……などと、自分を誤魔化しているだけかもしれませんが。