ご無沙汰しております。
小道舎の小芝俊亮のほうです。
私が編集者としての第一歩(バイトとしての編集経験も歩数に換算すると第1.5歩くらい?)を踏み出したW社は、
隔月刊のDVD情報誌のみを発行している極小出版社でした。
この会社での最初の仕事は、誌面掲載用の200~300文字程度の新作DVDレビュー(新作ソフトの短文解説のようなもの)データの作成でした。
レビューそのものは、テキスト作成を請け負う外部の編プロ・R社が大部分を作成&納品してくれていたのですが、その作成のための資料集めと資料のとりまとめ、内容チェックなどが主な業務です。
もう25年くらい前のことなので、どのようなことをしていたのか細かいことは覚えていませんが、DVDメーカーへ電話やメール、FAX等で連絡して新作情報を提供してもらったり、ジャケット画像を送ってもらったり、それらの新作情報を発注用にエクセルでリスト化したうえで発注したり、そのリストを活用して最新作リストを作成したり、といった作業内容でした。
当時はDVDのジャケット画像がデータではなくポジで送られてくることも多く、それをポジ袋に入れてダーマト(ダーマトグラフ。プラスチックやビニールなどにも文字等が書ける特殊な色鉛筆)で指定を書き込み印刷所へ渡して、印刷所から戻ってきたら郵送で返却……といった、今の編集現場から考えると恐ろしくアナログと感じられる作業も多い時代でした。
(ちなみに、当時のDVDソフト事情に詳しい人はわかると思いますが[詳しくない人にはなんのことかまったくわからないと思いますが]、当時は「ジュエルケース」から「トールケース」への移行期でもありました)
W社が刊行していたDVD情報誌は、もとはDVDの前身ともいえるCDV(CDビデオ)の情報誌で、その流れでDVD情報誌へとシフトした「日本初のDVD専門情報誌」でした。
そのため、従業員3~4名(時期によって変動)の極小出版社ではあったももののDVDソフトメーカー間での認知度は高く、資料としてリリース前の映像作品のサンプル(私の入社当初はVHSで届くことも多かった)もよく送られてきました。
そうした環境だったこともあり、私は「せっかく映像関連の仕事をしているのだから、1日1本は映画を見よう」と思い、年間300本以上の映画(といっても劇場で鑑賞するのは月一程度で、ほとんどはサンプルやレンタルDVD)を観る生活を始めました。
この習慣(というか趣味)は、その時から結婚&妻が出産するまでの10年ほど続きました(今はあまり観なくなってしまいましたが)。
入社からしばらくして、レビューページ関連の業務をひととおり覚えたころ、最新作紹介記事(レビューよりもさらに先取りの最新のリリース情報を紹介するページ)の執筆・編集や音楽関連ソフトのタイアップ記事作成、広告営業なども担当するようになりました。
タイアップ記事とは、平たく言えば、広告を出稿していただいたメーカーの作品を、レビューなどのデータ的な情報とは別に、大きな取り扱いの記事として解説・紹介するページのことです。
W社には、社長兼編集長のSさんのほか、映画関連の編集を20年以上続けてきたベテラン編集者のFさんがおり、そのFさんが、ほとんどのソフト紹介のタイアップ記事の編集を手掛けていたのですが、私は10代のころから音楽が好きでいろいろと聞いていたこともあり、音楽関連ソフトのタイアップ記事は、いつしか私が担当することが多くなりました(私に編集経験を積ませるため、Fさんがそう仕向けてくれていたという部分もあると思います)。
私が初めてインタビュー記事の作成を担当することになったのも、そうした流れからでした。
ソフトメーカーの一つ、N社がリリースする『20世紀ポップ・ロック大全集』(ロックやソウルの歴史を網羅的に映像解説するBBC制作のドキュメンタリー)というDVDソフトの紹介記事を作成することになったため、私は10代のころからファンだったピーター・バラカンさんにインタビュー取材することを提案し、その案でタイアップ記事の制作を進めることになりました。
(10代のころ、私は地元・千葉のBAYFMで金曜深夜に放送されていた、ピーター・バラカンさんが新譜情報をメインに紹介するラジオ番組の大ファンで、録音して何度も聞き、気になる楽曲を見つけては、少ない小遣いをはたいてCDを買っていた)
取材オファーは、当然、緊張しました。以前も書いたとおり、学生時代にもファンだった著名作家に学祭での講演のオファーをした経験はありましたが、今回は、そのあとさらに対面で取材し、原稿にして記事を作るという一連の作業もあり、それらもひっくるめると初めての経験です。
また、学生時代の講演オファーは潤沢とはいわないまでも“そこそこ”の金額でのオファーでしたが、今回は“極小出版社”からの仕事としての依頼ですので、かなり厳しい予算的制約もあります。
そうした条件面の不安もありつつ取材依頼し、ご快諾いただいたときは、「やった」「うれしい」「でも緊張する」「仕事って楽しい」「取材うまくできるかな」などと、やや興奮しながらもごちゃまぜな気持ちになった記憶があります。
その後、Fさんに付き添っていただき、恵比寿ガーデンプレイス内にある喫茶店で、私にとって初めてのインタビュー取材を行いました。
現場では、もちろん緊張していたと思うのですが、意外と冷静に話を聞けた記憶があります。ピーター・バラカンさんから直接話をうかがえることがありがたい、うれしいといったファンとしてのうわずった気持ちも当然あったと思うのですが、取材後に記事を作るということにより多く意識が向いていたため、初めてのインタビューながら思っていたほど緊張しなかったのだと思います。
私は仕事柄、著名な方に会うこともたまにあるのですが、基本的にサインをもらうことはありません。しかし、この日に限っては、私の生涯において、おそらく最初で最後になるであろうサインをもらいました。
私が10代半ばのころのリリース時から愛聴していた、ピーター・バラカンさんが初めて手掛けたコンピレーションアルバム(CD)のジャケットに、サインしてもらいたいと思ったからです。
取材後にそのアルバムを差し出すと、ピーターさんは「このCD、まだ持っている人がいたんだ」と驚いてくれました(単純に、リップサービス的な意味で驚いたふりをしてくれただけだと思いますが)。
このサインに関しては、自慢できることが少ない私にとっては数少ない「ちょっと自慢したいこと」の一つです。