W社では、私は最新リリース情報ページの担当として執筆を行っていましたが、その他にも、折々にタイアップ記事の原稿も書いていました。
ちなみに、W社で刊行していたDVD情報誌では、Fさんがその豊富な“映画方面”の人脈を活用して、業界ではかなり著名な映画ライター・評論家の方々にご寄稿いただいていました。
そのため、私のような“専門家”ではない社内の人間がタイアップ記事の執筆していると、クライアントの心証が悪くなる可能性があると考え、架空の映画ライター「佐分利圭太」(アフリカのミュージシャン、サリフ・ケイタのもじり)としてDVD評を執筆していました。

ソフトメーカーのA社がリリースした邦画『アベックモンマリ』のDVD評を書いた際には、編集担当として私に執筆依頼をしたFさんから、A社担当者が「記事内容がよくて、うれしくて何度も読み返した」という内容のメールがあったと聞きました。このことは、文章(映画解説)を書くことへの自信につながりました(その後、P社がリリースした“エロスの巨匠”ことティント・ブラス監督のDVD解説を書いた際も、メーカー担当者がえらくほめてくださった)。
当時、Fさんが度々記事執筆の依頼をしてくれたおかげで、売り物として恥ずかしくない文章を練る経験ができたことは、その後、編集・執筆業を続けるうえで相当な糧になりました(このブログでは乱文が多いかもしれませんが、売り物ではないのでご容赦ください)。

前々回のブログで書いたとおり、私はW社で広告営業にも従事していました。
基本的に、大手メーカーの場合は、すでに各メーカーの宣伝担当者等とW社の間にパイプがあったため、S社長やFさんが営業を担当していました。
そこで私は、主に中小メーカーへの営業を担当することになりました。

私が広告営業もするようになったのは、「会社の経営状態があまりよくないので、少しでも広告収入を増やす必要があった」という身も蓋もない理由からです。
ただし、そうした会社の都合とは別に、私個人としては、どんな分野の仕事であれチャンスがあれば挑戦し、幅広い経験を積みたいと望んでいたため、私のほうから積極的に志願しました(もちろん、会社のためにという気持ちもありましたが)。

広告営業を行う際は、最新のリリース情報が届いた時点でタイアップ記事の企画書を作成し、それをメーカーに持参して出稿を検討してもらうというパターンが多かったのですが、営業先で最新リリース情報をうかがって、その情報をもとに企画書を作成し、改めて営業することもありました。
また、私が担当する最新作紹介ページで営業先メーカーのリリース情報を目立つように扱うことを約束することで、「広告出稿のほうもお願いします」とアピールすることもありました。

前回書いたとおり、映画関連ソフトのタイアップ記事の編集は、基本的にFさんが担当していたのですが、私が広告営業を行う場合はタイアップ記事の企画書も私が作成するため、リリースされるソフトが映画作品であっても、大抵の場合は私が記事の作成も行いました。
そして私には「ジャンルに関わりなくより多くの編集経験を積みたい」という気持ちがあったため、より一層、営業に精を出すようになりました。

なお、私が営業を始めるにあたり、S社長は私が取ってきた広告費の1割を成果報酬として支払うと約束してくれていたのですが(もちろん、当初はこれも広告営業を行ううえでの大きなモチベーションの一つだった)、その約束が守られたのは、最初に広告を取ってきた時の1回きりでした。
約束が守られないことがわかって以降は、当然、ややモチベーションは下がりましたが、それよりも「仕事としてやれることは何でも経験したい」という気持ちのほうが勝っていたため、私はその後も営業を続けました(このころ、会社の運転資金に窮した社長に一度だけお金を貸したこともあり、「ゴネたところで払えないだろう」と思って諦めた部分も……)。

おそらくS社長は、中小メーカーに営業に行ったところで大した成果は出せないと考え、1割の成果報酬を約束してくれたのだと思います。
もちろん、大手とくらべて中小メーカーは広告予算も少なく、1回の出稿でいただける広告費も大手と比べて劣る場合がほとんどでした。その一方で、当時は新興のソフトメーカーがちらほらと登場するなど、映像ソフト業界はまだかろうじて昇り調子でした。
結果として、もっともうまくいった時は、私の営業担当分だけで1冊につき200万円くらいの広告収入になったこともありました。
大手のハードメーカーやソフトメーカーからの広告収入と比べれば小さいとはいえ、当時のW社にとってはかなり「助かる」額だったはずです。

当時は、できることは何でも積極的に取り組んだという自負があります。しかし、私の俸給は安いままでした(ここに具体的な額は書きませんが)。
そうした状況でも「この会社で経験したり、吸収したりできることはまだまだあるはず」と思い、しばらくは前向きに仕事をしていました。
そして、もう少しFさんと一緒に仕事をして、もっといろいろ学びたいという気持ちもありました。

しかし、だんだんそうも言っていられない状況になってきました。
ご寄稿いただいた方々からの「あの原稿料の支払いがない」「いつ支払ってくれるの」という問い合わせが増えてきたのです(社長が経理も担当しており、一編集員である私が振込み等に関して口出ししたり、実行したりすることはできなかった)。

W社での仕事への愛着や、もう少しFさんと仕事をしたいという気持ちはあったものの、さすがに未払いへの対応が増えるばかりの状況で働き続けることは、自分の立場やキャリア(というほどのものではないが)にも悪影響を及ぼしかねず、心理的にキツくなってきました。
そしてこのころの私は、そろそろ“ある程度まともな額の給料”が欲しいと感じる年齢になりつつありました。
そこで転職活動を開始し、M社という編プロに入社することになりました。

この時、W社に入社してからすでに4年半が経過しており、私は三十路に突入していました。